254日目 ゴールが見えてきた
12月29日、上越市のネカフェで起床。どうせ今日も天気は悪いのだろう、諦め混じりで外に出るとピーカン照り。What's?ここホントに新潟?暖冬とは思っていたがまさかここまでとは。晴れてるのは嬉しいのだが雪を必要としている人にとってはどうなんだろうか。
上越からは国道8号線を走って北上する。それほど傾斜も無く、天気も良いので心地いい。2019年最後の日曜日ともあって道中の商業施設は沢山の人々で賑わっていた。
日本海の荒波はどうした。
新潟なのでもちろん田んぼが続く道もある。日本全国津々浦々の田んぼを走って来たが、やはり新潟の田んぼは帰ってきた感を感じる。思い返してみれば周りに田んぼが無い生活は東京に出てからの数年しか無い。人生の大半は田んぼに囲まれて過ごしてきたと言っても過言では無い。いや過言だわ。
そんな事を考えているといつの間にか長岡市へ。なんだかんだ長岡に来たのは久しぶりだ。
長岡と言えば長岡花火、と連想する方も多いが僕は一度も行ったことが無い。観光客が増えるし、電車の本数が増える以外に思った事はない。いつか行ってみたいなぁと思っているが果たしていくことは有るのだろうか。まぁ彼女でも出来たら行きますか。いつになるやら。
明日にはゴールの新潟市へ。旅中に過ごす最後の夜だ。と言っても別に特別な事は無いのでさっさと寝た。
253日目 上越にて友人と
12月27日、道の駅にて起床。相変わらず天気は最悪。まぁ日本海の冬なんて毎日天気は悪いが、今日は特に風が強い。ほぼ向かい風で風速10m越え。しかも雨。さらに寒い。正直道の駅から出るのが億劫過ぎて動きたくなかった。
それでもたかだか20キロも走れば一応都会の上越まで行ける。友人もいるし暖かい寝床(ネカフェ)もある、天秤に掛けた時に後者の魅力に負けて意を決して出発する。もちろん完全防御、出来る限り暖かい服装だ。さらに安物の靴しかない僕は靴下プラスビニール袋で耐寒性を上げる。見てくれは悪いし、滑って漕ぎにくいけど仕方が無い。
そんな感じで飛び出したもののあまりの風の強さに面食らった。自転車もろくに漕げない。漕ぐ事を諦めて押して歩くしか無い。道の向きが変わって風の影響が弱まったら漕ぎ、また風向きが変わったら押すということを繰り返した。途中久比岐自転車道という区間もあり大分助かった。天気が良ければ最高の道なんだろうなぁ。
そして何とか上越市街に到着。約20キロに費やした時間、3時間也…。
すぐに巨大ネカフェにチェックイン。溜まっていた洗濯物を洗い、シャワーを浴びて人心地着いたらいつの間にかうたた寝していた。
夜になったので友人と夕飯。小学生からの仲の友人だが、会ったのは大分久しぶりだった。何も変わってなくて驚いた。しばし楽しい時間を過ごした。
順調に行ってあと二日でこの旅は終わる。昨日や今日は必死に漕いでたのであまり意識しなかったが、時間がある今日にそう思い、寂しい気持ちになった。
252日目 故郷凱旋
12月26日、魚津のネットカフェにて起床。本日は冬の日本海側らしく荒れた天気。正直この天候で進むのは気が進まないがもう残された日数も少ないので仕方無く進む。
気が進まない理由はもう一つある。富山新潟県境の難所、親不知を通らなければいけないからだ。
日本一周した人の中では一番の難所で親不知を挙げる人もいるという。正直ビビり倒していた。
まぁいくら嘆いても親不知が無くなる訳では無いので進むとする。まず魚津から黒部市へ。その後ついに新潟県へ突入する。
全国トップクラスに主張が激しい県境の看板
ここから親不知ゾーンへ。昔は海沿いの壁伝いの道しか無かったらしいが、現在では道の多くはトンネルになっている。アップダウンを繰り返し、しかも狭いトンネルは確かに恐怖だった。だが、今日の様な雨の日は傘の役割を果たしてくれるのでむしろ嬉しい。嬉しい誤算だった。一箇所長いトンネルは歩行者や自転車用に脇道が用意されていた。そこには道路の完成を記念して岩肌に彫られた「砥如矢如」の文字が消えることなく残っていた。
意味は「(この道路は)砥石のように滑らかで、矢のように真っ直ぐである。」と称賛したもの。
その近くには日本近代登山の父、イギリス人宣教師のウォルター・ウェストンの銅像もある。彼曰くこの親不知は日本アルプスの起点に当たるらしい。昨日僕が富山平野から眺めたあの山々も始まりはここだという。なんだか不思議な気分になる。
未だ天険の地の雰囲気ビンビン。
その後必死の思いで親不知を抜けて糸魚川市へ。糸魚川からも海岸沿いの高低差に苦しめられながら、寒風に苦しめられながら息も絶え絶えに進む。
今日の目的地であった上越市まで残り17キロ。しかし日没間近。これから先の海沿いの道に電灯など期待できないのでここまでとする。泊まるのは道の駅うみてらす名立。正直、温泉がある道の駅には泊まらなければならない病気なのだ。
冷え切った体を温め、メシを喰らい、休憩室でテレビを眺めて寝床へ。幸いにも24時間空いている休憩室があるのでチェックイン。それでも底冷えに苦しめられた夜だった。
251日目 神々の山嶺
12月25日、今日こそ忘れ物は無い。再び固い握手を交わし出発する。
早朝の金沢の街を駆け抜ける。まだ人がいない兼六園や金沢城を横目に北上を続ける。
金沢城。加賀百万石。
30キロほど走ると山間に差し掛かると共に登りが始まる。もう紅葉には遅いが木々の間を走るのは気持ちがいい。登りも適度で吐く息も白い。しかし日差しがあるのでそこまで寒くはない。
丁度昼頃に石川富山の県境である倶利伽羅峠に到着。源平合戦の一つ、木曾義仲を一躍有名にした倶利伽羅峠の戦いの舞台だ。
火牛の計。牛の角に松明を結んで崖から駆け降りさせて敵の混乱を誘う戦法。無茶な戦法だよ。
当時は難所だったみたいだが、現代にはトンネルが山を貫き大分楽になった。しかし日本トップクラスに狭いトンネルだったので冷や汗ものだ。
トンネルを抜けると富山県に入る。
一気に降って富山平野へ。平野に入って目の前に広がったのは北アルプスの山並みだった。
度肝を抜かれた。しばらく走らずに橋の上から山を見ていた。いつかあの頂きからの景色も見てみたいと強く思った。その後旅を終えてから山岳小説を読み漁る機会になったのもこの時である。
しばらく山並みを眺めながらゆっくり走っているといつの間にか夕方に。慌てて今日の宿と目論んでいたネットカフェへ急ぐ。今日の夕飯は少し豪華にココイチのカレー。なんて言ったってクリスマスだしね。
249日目 祖先の地へ
12月23日しゅーへー家にて起床。今日は一日観光に当てようと思う。この日の空は快晴。冬の日本海側にしては珍しいと思う。
観光と言っても著名な観光地を巡るわけではない。石川県にはどうしても行かなければならないスポットがあったのだ。
とその前にやっぱり有名な観光地にも行く。と言うよりかは道中にあったので寄ってみた。
千里浜なぎさドライブウェイ。日本で唯一車で走れる砂浜として知られる。どうやら他の砂浜と比べて砂の粒子が細かく、固まるため車などでも走れるようだ。波打ち際を颯爽と走り抜ける感覚は、海岸線を自転車で走るのとはまた違った爽快感だった。まるで映画のワンシーン。ショーシャンクになんかこんな感じのシーンがあったような、無かったような。
気分爽快で向かうのは真の目的地。僕の苗字が冠された土地、羽咋市は四柳町である。
と言っても何がある訳でも無い。ファミリーマートと神社があるくらいだ。だがなんとなく厳かな気分で小さい四柳神社にお参りした。町の標識や信号などに四柳の文字がいくつも書いてある。今までの人生で自分の名前くらいしか見なかった二文字がそこら中にあることが妙にこそばゆい。それでも祖先に想いを馳せれて良かった。全国苗字ランキング9507位(ネット調べ)の四柳だが、確かにここにあった。
その後は再び金沢に戻りしゅーへーの家で鍋パーティー。2人でワイワイ鍋を作るのは楽しかった。あれ?彼女もいない2人が何やってんだ、、、?
248日目 pick up
12月22日、鯖江市から出発。北陸ともなると朝はとても寒い。折り悪く小雨混じりの中の出発となった。
こんな朝はテンションが上がらない。惰性で漕いでいく。しかしこういう時に災難は降りかかる。
後輪のパンクだ。パンク自体は珍しいものでも無いし、修理も手慣れたものだ。しかしこのタイミングかぁ、、、。最初から低いテンションがますます低くなる。こうなると作業効率も悪くダラダラと修理してしまい、時間だけが流れる。目的地は石川県の金沢。まだまだ先は長い。しかも今日は待ち人がいる。彼に迷惑はかけちゃいけない、、、。
そこでナイスなアイデアが思いついた。待ってる人に車で迎えに来てもらおう!自分で言うのも何だがスーパーナイスアイデアである。そいつに電話したら最近デカイ車を買ったらしい。タイミングもナイスだ。
というわけで走り始めて福井市へ。駅前の発展ぶり()に驚き、妙にリアルな恐竜に慄き、進む。
その後道の駅さかいにて友人にpick upされる。いや、していただく。金沢の自宅まですっとび、さっぱり綺麗になって金沢の夜の街へ繰り出す。
車の中から石川in
金沢と言ったらここ。というかここしか見所ないっしょ、金沢なんて。(新潟のライバルへの敵対心)
サンキュー、しゅーへー
サンキュー、ヘルムート山際
足の山際を呼んで帰宅。その後はしゅーへーの家で昔懐かしい高校時代のビデオを見て就寝。